空はもうすっかり明けはじめていた。
 いつもだったら朝食の準備とか、朝の鍛錬とかしなければいけない。だが・・・・・・。
「あら、おいしいわ。お茶を入れるのは前よりもうまくなったようね」
 などと問題の人物は一見穏やかそうに居間で冬馬の入れたお茶を飲んでいる。
「お気に召していただけて何よりです」
 そりゃそうだ。
 茶葉は家にある中で一番の上物の頂き物のお茶だし、沸かしたお湯の熱さにも気をつけた。
 うかつなことをしたら何が起こるかわからないのに、まずいものなんて出せるか!
 そして問題の人物がもう一人。
 ちらりと横に目をやると目を思いっきり細めて黙りこくっている千夏がいる。
 先ほど思いっきり寝ているところを襲われるなどという不意打ちを食わされたせいで警戒心むき出しだ。
 少なくとも初対面の千夏にとって、姉は突然の侵入者に違いないはずだ。
 そんなわけで打ち解けるという雰囲気にはとてもとても程遠かった。
「・・・・・・それで姉上、このたびは何の御用でいらっしゃったのです?」
 呼吸を整え、おそるおそる一番聞きたかったことをたずねた。
「あら、私が自分の実家へ帰ってくるのに理由など必要かしら。・・・・・・それとも私が帰ってくるのがそんなにお嫌?」
 にっこり笑いながら姉は逆に問いかけてきた。
 その笑顔がとても怖くて正視できない。
「そ、そ、そんなことはありません。けっして!」
 首を思いっきり左右に振って否定する。そのうろたえぶりがおかしいのか、千沙はころころと笑っている。
 うう、苦手だ。物心ついたときからどうしてもこの人には逆らえない。
 ・・・・・・そういえば明け方からどたばたしていて何か忘れている気がする。なんだろう。
「あ、そうだ、父上が起きてこない」
 いつもだったらもうこのくらいに寝ぼけながら起きてくるのに、今日という日は起きてこない。
 仕方ないので起こしに行こうと膝を上げようとした時、千夏がポツリとつぶやいた。
「お父様だったら、夜中にしばらく留守にするって出かけたよ」
「なにーっ!!」
 ほら、と千夏は胸から紙を取り出した。
 慌てて広げて見ると、そこには流麗な字で、簡潔な文章がしたためられていた。いわく。
『しばらく留守にする。後は任せた。千沙をよろしく。追伸、命が惜しければ千沙の機嫌を損ねるなよ・・・・・・父より』
(あの親父、姉上が来るのを知ってて逃げたなっ!)
 いつも面倒なことからは真っ先に逃げる父親に、頭から巨大な石でも投げつけたい気分だった。
 父もこの姉がなぜか苦手であった。そして厄介ごとが起きるたびに自分に押し付けて消えてしまうのだ。
(帰ったら覚えてろっ!)
 心に固く誓って冬馬はこぶしを固めた。
 どうしてこう、いつも同じことの繰り返しなんだろうか。
「冬馬、さっきから黙ったり、怒ってみたり。何を一人で百面相をしているの?」
 怪訝そうに姉が尋ねてきた。
「いえ、昨夜から父上がしばらく留守にするみたいで・・・・・・」
「知っているわよ。父君から冬馬をよろしくと言伝もいただいているわ」
 さらりと姉はなんともなさそうな口ぶりで答えてきた。
 なにぃ、と冬馬は心の中で叫んだ。
 つまりそれは自分たちだけ知らなかったということではないか。
 用意周到、いやこれは姑息だ。
 ため息ばかりが重くなる。とりあえず当面の疑問を片付けないと。
「姉上さきほどの質問の答えをいただいておりませんが・・・・・・」
「何だったかしら?」
「いかなる理由でこの家を訪れたのですかということですが」
「冬馬、違うわ。訪れたではなくてよ」
「は?」
「帰ってきたの、この家に」
「そうですか、帰って・・・・・・え?!」
 驚いて目の前の姉を見つめた。だが彼女は偽りを言っている様子ではない。
「私は昨夜、裕次郎様と離縁してきました。そうなると、速見の家にはもういられないでしょう? ですから実家である藤森家に戻ることになりましたわ」
「離縁、それって・・・・・・?!」
 あまりに自然に言われて冬馬はその意味を理解できなかった。が、頭が回転するにつれ、その重大さが飲み込めた。
「ちょっ・・・・・・! いきなり離縁なんて・・・・・・なにがあったのですか!」
「・・・・・・まあ、冬馬。いくら大切な大切な弟であっても夫婦の間の密事を教えるとお思いですか?」
「で、でも!」
「とにかく、本日からこちらの家に厄介になりますわ。部屋は以前の私の部屋が空いていたら使わせていただくわ。片付けは私の方でやるので手伝いは無用よ」
「あ、姉上!」
 話をさっさと切り上げてすたすたと奥の屋敷へ歩み去ってゆく姉の後姿を見送りながら、呆然と冬馬は突っ立っていた。
「う、嘘だろ・・・・・・?」
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