「ごちそうさまでした!」
 ご飯粒一つなく綺麗に食べつくした茶碗を置いて、千夏はぺこりとお辞儀をした。
 人間じゃないものがつくろうが、おいしいものには礼儀を。これが千夏の習慣だった。
 別に食べ物に毒が入っているわけではないし、とにかくおいしければなんだっていいと思っている。
 事実、今日の食事はとてもおいしかった。
 冬馬も料理は上手だが味付けに関してはちょっと大雑把なところがあって、塩加減にちょっと難がある。まだまだここまでおいしく作れない。
 椀などを童たちに渡しながら片付けていた千沙の動きが止まった。
「あら、やっといらっしゃったみたいね」
 その声に冬馬は眼を向ける。だが彼女の視線の先には誰もいない庭があるだけ。
 誰が来たのですか、と彼が問いかける前に、千沙は傍らにいた童に指示を下した。
紅霞こうか、それと青嵐せいらん。悪いけど、食器の片付けをしてね」
「わかりました、千沙様」
「了解ですぅ」
 赤と青の衣を着た童たちがお膳や食器類を台所に下げに行く。千沙は残った二人の童を両脇に従え、庭に向かって座った。
「千沙――――っ、誰かいないかーーーーっ」
 聞き覚えのある声が表から聞こえた。
「この声は・・・・・・義兄上?」
 おもむろに立ち上がった冬馬は急いで玄関へ向かった。
 玄関ではひざに手を当てたまま、ぜいぜいと肩をゆらしながら荒い息を吐いていた。よほど急いできたと見える。
 手にはなにやら紙切れを握り締めていた。
「義兄上、水をお持ちしましょうか?」
 首を振って彼はその申し出を断った。
「いや、いい。それより、千沙はいないか」
「姉上なら居間の方におりますが・・・・・・」
「そうか、すまぬがあがらせてもらう」
 履物を脱ぎ捨てて、さっさと居間へと向かう。
 いつもと違うただならぬ雰囲気を漂わせている義兄の後を冬馬は追った。
 彼は居間にもとめる人を見つけてその名を言った。
「千沙」
 だが彼女は庭を見つめたまま、返事をしない。
 一息ついて彼は再び呼んだ。
「・・・・・・千沙」
 ゆっくりとその端正な顔が彼の方を向いた。
「私になんのごようでしょうか、裕次郎様」
「なにをいう、千沙。これはどういうことだ?」
「申し上げたいことはすべて書状にお書きいたしましたわ。いまさらあなた様と話すことなどありません」
 そういってふいっと顔をそらす。
「だがこのようなこと身に覚えはない。そなたの勘違いだ」
「勘違い・・・・・・ですって?」
 ひやりとしたものが背筋を駆け抜けた。裕次郎も、冬馬も、そして千夏さえも動けなかった。千沙は美しい顔をゆっくりと裕次郎の方へと向ける。
 口に浮かぶのはかすかな微笑み。だがそれは人を凍りつかせる冷たい笑顔。
「私の言うことに偽りがある、とでもおっしゃるのですか。裕次郎様」
「・・・・・・いや、その」
 千沙の気迫に押されてうろたえる裕次郎。
思わず冬馬と千夏はそろって後ろヘと後退ずる。
 二人は本能的に感じていた。このままここにいてはいけない。絶対に巻き添えを食らう、そんな気がした。
 視界の端では童二人が彼らの足元にあったお膳をそそくさと下げていた。まるで避難するように。
「千沙、だから離縁するなどというな。まずは話し合おうではないか。そうすれば誤解は・・・・・・」
 千沙の肩先へ手を伸ばそうとした裕次郎をさえぎるかのように千沙は静かに言い放った。
「触らないでくださいませ。これ以上先に進みましたら、あなたの身の安全は保障しませんわ」
 だが必死な裕次郎はその言葉を聞いてはいなかった。
「千沙・・・・・・」
 裕次郎はさらに一歩千沙へと近づいた。そして手が肩先に触れようとしたその瞬間・・・・・・。
白露はくろ!」
 千沙に名を呼ばれて、白い衣を着た童が裕次郎の前に立ちふさがった。
「・・・・・・」
 無言の童子は彼にあやまるようにぺこりと一礼して、指を広げて両手のひらをまっすぐ向けた。目の錯覚か、一瞬の空白地帯のようなものがが幼い童の周りに生まれる。そしてそれは容赦なく裕次郎に向けて放たれた。
「のわ・・・・・・っ!!」
 裕次郎の巨体が宙に浮いて、そのまま後ろへと吹き飛ばされた。誰も手を触れないで。まるで見えない何かに突き飛ばされたかのように。
 そのまま彼は後ろにあった柱に背中を思いっきりぶつけた。
 衝撃でかすかに館が揺れる。
 柱に打ち付けた背中をさする裕次郎を冷たく見据える千沙。その唇はまた別の名をつむいだ。
黒曜こくよう・・・・・・」
 ふわりと黒い衣をまとった童が白露と呼ばれた童の前に立った。楽しそうに笑いながらその童は言った。
「命令だから、ごめんなさい裕次郎様」
 水が、何もないはずの頭上から突如大量の水が裕次郎に降り注いだ。
 いつも自分にされている仕打ちを思い出して、冬馬は思わず千夏の方を振り向いた。だが彼女も目を見開いて必死に首を横に振る。
 座していたその場から立ち上がった千沙はだらしなく床にのびている裕次郎に言い放った。
「そこでしばらく頭を冷やしなさいませ、裕次郎様」
 そういったまま千沙は廊下を渡って離れへと消えていった。その後ろを四人の童たちがついていった。
 廊下の向こうへと去っていった姉を見送って、冬馬は裕次郎の下へ駆けつけた。
「大丈夫ですか? 義兄上・・・・・・」
 彼の呼びかけに裕次郎は力なくうなだれた。
「千沙・・・・・・」
 去っていった妻の名をさびしげにつぶやく義兄を驚きの目で見つめる。いままでここまで打ちのめされた姿を見たことがなかった。
 いつも明るく朗らかで人当たりの良い義兄が、あの姉のことになるとこんな姿も見せるかと。
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