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 冬馬は湯飲みに熱いお茶を淹れて裕次郎の前に置いた。だが、彼は心ここにあらずといったようで、茶が自分の目の前に置かれたことにも気づいていない。
 あの後、懲りずに姉の後を追おうとした彼を冬馬と千夏が必死に押しとどめたのだ。
『今、お姉さまのところにいっても、もっと嫌われちゃうわよ』
 容赦のない千夏の言葉にさすがの裕次郎も踏みとどまったようだ。嫌われる、との言葉に止めを刺され、いまだ部屋の片隅でしょげている。
(姉上のどこがいいんだろう?)
 彼らが結婚すると聞かされたときからの一番の疑問だった。
 物心つき始めてからあの姉にはしつけという名目の元にとんでもなく恐ろしい目に合わされてきた冬馬は、姉がこの家からいなくなって心からほっとしていたのだ。
(俺だったらすきになるならもっとおとなしくてやさしい子がいいけどな。姉上だけは絶対に御免だ)
 かといって冬馬はまだ誰かを特に好きになったことはない。だからとも思われるが、義兄の気持ちはいまひとつ、というか、ほとんどわかっちゃいない。
「それで義兄上、姉上はなぜ出て行かれたのでしょう?」
「・・・・・・この書状を見てみろ」
 彼は握り締めた書状を二人の前に広げて見せた。
 たおやかな女性を思わせる優雅な文字がそこにある。姉上の手だ。
「あーん、冬馬読んでよー」
 どうやら千夏は言葉はわかっても文字が読めないらしい。甘え声とは正反対に目で冬馬にさっさと読めと命じてくる。
 あきらめの吐息をこぼして、彼はその手紙を読み始めた。
「ええと、わが夫なる速水裕次郎殿・・・・・・」

 ―――わが夫なる速水裕次郎殿
 突然のことながら私、千沙はあなた様と離縁をいたしとう存じます。
 常日頃清廉潔白な方と思っておりましたが、それは私の思い違いであったことがわかりました。
 妻帯している身でありながら、他の女子に恋慕の思いを抱き、妻である私にそのことを隠していたこと、許せることではございませぬ。
 どのようないいわけであろうと、聞きたくはありません。
 私はただいまより実家に戻ります。もし連れ戻そうと実家に参るのであれば、決死のお覚悟をもってお願いいたします。

                                千沙

「・・・・・・つまり・・・・・・えっと?」
「つまりお義兄様は浮気したの?」
 ずばっと言い放った千沙の言葉に、冬馬は目をむいた。
「まことですか、義兄上!」
「しておらん、千沙がおるのにそのようなこと、絶対に!」
 絶叫して二人の言葉を否定する。
 その様子を見て、千夏はにっこりと笑う。
「そうよねえ、そんなことできないもんね。お義兄様は♪」
「だよな・・・・・・できないと思う」
 二人ともまったく違う意味で納得した。
 千夏は裕次郎の千沙への一途な想いから、冬馬は姉への恐怖から。
「だからわからぬのだ、千沙がなぜ突然このようなことを言い出したのかが」
「うーん、たとえば一番ありえそうなのは、お義兄様のお屋敷で雇っている下女とかにちょっと優しくしていたとか・・・・・・」
「いや、我が家では誰も雇ってはおらぬ」
「どうして?」
 千沙に問われて確かに裕次郎は頬が引きつった。奥をうかがうようにちらりと目をやってから声を潜めて答えた。
「今まで何人か下女や老僕をやとったのだが、これが千沙を恐れて誰も長くは居つかぬのだ。それに必要なことは千沙の手下の鬼たちがやってくれるので不自由がない」
 何を思ったのか、一瞬だけ千夏はあらぬ方向を見上げた。何が言いたいのか、冬馬にはなんとなくわかったが。普通の人間でも一緒に暮せば姉の尋常のなさはわかるということだ。
「では、他に関わった女子はおりますか? 行きつけの店とか、近所とか・・・・・・」
「いや、疑わしいことは避けている。だが、酒を買いにいく酒屋の女将とか、隣屋の娘とは会えば話すが・・・・・・」
「じゃ、それが原因?」
「まさか。隣屋の娘はまだ五歳にも満たぬ幼子だし、酒屋の女将にいたっては七十を過ぎている! それでいくらなんでも千沙があのように怒るわけはないだろう!」
「うわさにたがわず潔癖な生活のようですね・・・・・・」
 道場仲間からちらりと聞いたうわさでは、裕次郎は仲間内で酒に誘われても千沙がいるからとほとんど付き合わず、若い女がいても決して口を交わさない。
 しかし自分はさらに上に行くとうわさされていることを知らないのは本人だけだが。
(さすがの姉上も、子供と老女と話して文句を言わない・・・・・・はずだよな)
 義兄の言葉は嘘ではなさそうだし、一体何が姉上を怒らせたのか。
(姉上のことはさっぱりわからねぇ・・・・・・)
「とにかく私たちが姉上からそれとなく聞きだしてみますから、今日のところはお帰りになったほうがよろしいかと思いますが」
「う・・・・・・だが・・・・・・」
「でないと、またあいつらが義兄上を強制的に追い出そうとしますよ、きっと」
 そういって冬馬は後ろに控えた童たちを見やった。注目された童子たちは冬馬のほうを向いて愛くるしい笑顔でにっこりと笑った。
 裕次郎もさすがにあきらめたのか、悄然と首を落とした。
「わかった、冬馬頼むぞ」
「千夏が神社の外までお見送りしてあげるよー」
 千夏に手を引かれて裕次郎は立ち上がった。
 そのとき、冬馬はふと何か違うものを感じて足を止めた。
 日差しをさえぎった何か。だがすぐ振り返ったがそのようなものはなにもなかった。
(気のせい、か?)
 裕次郎に何か覆いかぶさっていたような気がしたが、何もなかった。
 ただかすかに不吉な予感だけがちくりと胸を刺した・・・・・・。
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