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 裕次郎の屋敷で冬馬が浅黄と言い合っている頃、神社の藤森の家では千夏が留守番をしていた。いや、留守番ではなく、本人は見張りをしているつもりだった。
 庭の片隅にある木の陰から向いの座敷のほうを睨みつけていた。
 もちろん千夏は気配を消していた。だが、向こうは自分の存在をとうに気づいているようだ。
 今回はあの時とは違って一部の隙も見せてはいなかったというのに。
 あの女性は庭のほうを向いて、千夏の隠れている岩に向かってにこりと微笑んだのだ。
 しっかり気づいている。
 しかしここでやめるわけにはいかない。
 本性を探らなくては。人間に負けてばかりでは五尾の黒狐の称号が泣く。
 千夏は岩にしがみつくようにおそるおろる顔を覗かせて、座敷の千沙を見張り続けた。
 ちょん、と肩に何かが触れた。
 だが彼女は無視する。
 すると間をおいてまたちょんちょんと肩に何かが触る。
「ちょっと邪魔しないで」
 小声で言って手で払いのけた。
 だが今度は彼女の袖口をさっきよりも強く引っ張られる。
 いきり立って千夏は引っ張られた袖のほうを向いた。
「邪魔しないでって言ってるでしょ!」
 振り向いて自分の袖口を引っ張っているものの正体を見た瞬間、千沙の顔が凍りついた。
「ごめんなさい。邪魔するつもりじゃなかったんです」
 うるうると瞳を潤ませているのは黒い服をまとった童子だった。いきなり現れたので千夏は思わずのぞけった。
「うわっ!」
「ああっ、ごめんなさい、ごめんなさい。脅かすつもりでもなかったんです!」
「じゃあ、気配消して現れないでよ!」
 千夏は顔を真っ赤にして怒鳴り返した。
「だって隠れていたので私も気づかれないように気配を消してみたんですけど。お邪魔でしたか?」
「邪魔!」
「そ、そんな・・・・・・」
 即答されて、ううっ、と袖で顔を隠しながらさめざめと泣き声を上げた。だが千夏にはそれが泣きまねであることぐらいわかる。
「やめてよね。そういうの。あなたたち《式》が本気で泣くことなんてないでしょ」
「あら、ばれてましたか?」
「あたりまえでしょ!」
 けろりとした表情で顔を上げた黒曜に、千夏は思いっきり大声で言い返した。
「大体何しに来たのよ。あたしは忙しいの。遊ぶならあなたたちの仲間内で遊べばいいでしょ!」
「遊ぶって・・・・・・私たちは仕事できたんですけど」
「ちょっと、今確か、私たちって!?」
「はい、私たち」
 そういって黒曜は横にずれて後ろを指し示した。するとそこには腕を組んでむっつりと押し黙ったままの白い童子、白露が立っていた。
「白露は恥ずかしがり屋なんですよ。いっつも無言で。だから私が代わりに全部しゃべってあげるんです。ね、白露」
 しかしその白露は無言で黒曜をねめつけている。暗にお前はしゃべりすぎだと非難しているようだ。
「仕事って言うのは、これです」
 そういって黒曜は上に布のかけられたお盆を差し出した。紅の華をあしらった布を取ると、そこには注ぎ口から湯気を立てている急須と、湯のみ、それから色とりどりの落雁が添えてあった。
「あなたが偵察に来てがんばっているから差し上げなさいと千沙様からの差し入れです」
 千夏はがっくりと頭を落とした。
 ここに隠れているのはばればれ。さらに差し入れまでよこすその余裕。
 役者が違うわね、と千夏はつぶやいて、岩陰から出て座敷に坐っている彼女と向き合った。
「あら、もう偵察は終わり?」
「違うわ。せっかくの差し入れだけど一人で食べられないわよ。そっちにいいかしら、話があるの」
「いいわ」
 千夏は庭先から歩いて縁側の廊下に腰を下ろした。千沙もその隣に正座をして坐った。
 黒曜が手にしていたお盆から菓子入れをとって二人の間におく。そして二つの湯のみに茶を入れた。
 こぽこぽと茶の入れる音が響く。
 最初に切り出したのは千夏。
「家を出てきた理由を教えて」
「ずいぶんと単刀直入に聞くのね」
「だって、聞かなければお姉様はお話にならないでしょう?」
 千夏の黒い瞳がまっすぐに千沙に向けられる。だが彼女はうろたえもせずに素直にその視線を受け止めている。
 少し考えているのか黙ったままだったが、千沙は独り言のように言葉をこぼした。
「家を出たのは私の問題。だけど話すわけにはいかないわ」
 私の問題、といった。裕次郎の問題ではないということか。だとしたら彼女が家を出た理由は別にある。それにしては離縁するといったときの千沙は本気だったようだが。
「話して。このままじゃ、お義兄様、本当に立ち直れなくなる」
「あなたは裕次郎様のこと、好きなの?」
「うん、優しいし、いつもお菓子くれるし、すごくいい人だからあんなふうになっちゃうのはかわいそうだもの」
 それは本心だ。千夏は裕次郎のことを兄みたいに慕っている。
 彼女は人というものをいとしく思っていた。自分よりもずっとずっと儚い存在だから。
「そう、いい人。あの人はいつも、誰にでも。だからいけないの」
「・・・・・・」
「私と一緒にいるといつのまにかあちらに引っ張られるって言ったのに、それを忘れているの、だから」
 だからこうなったのよ、とつぶやく。
 千夏は茶を飲みながら彼女の横顔を伺っていたが、何を考えているのか読めない。表情もほとんど崩さないし、かすかな微笑みがすべてを隠してしまう。
 感情をもろに出してしまう冬馬の姉とはとても思えない。
「あなたに心配させるのもいけないわね。あと三日待っていなさい。そうすればすべては片付くから」
「三日? 何で三日も?」
「それはね、大切な大切な女の事情よ」
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