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 空には月が昇っている。細い細い爪のような月が。
 鋭いその先で何かを引き裂こうとするかのように静かに輝いている。
 淡い白い光が神社の奥に建てられた神楽殿を暗闇の中から浮かび上がらせていた。
 神楽殿は屋敷からはかなりはなれたところにある。それに神社でも奥まったところにあるため、ほとんど誰も近寄らない。ましてや夜には誰も訪れることはないはずだった。
 しゃらん、と清らかな鈴の音が鳴り響く。音は段々近づいてくる。そして静かな暗闇の内から誰かが現れた。
 現れたその人は千沙だった。だが昼間の彼女とはあまりにも雰囲気が違う。誰も近寄らせぬ、絶対的な拒絶。
 白い水干と赤い袴を纏い、長く伸ばしたつややかな黒髪を首の後ろで一つにまとめ、左手には小さな鈴のついた扇を持っていた。
 草履を脱いで、彼女は神楽殿へと昇る。中央に立つとすっと息を止めた。
 一際大きな鈴の音が響いた。舞扇を開いて彼女は前に腕を伸ばす。
 神楽の音もない、ただ鈴の音にあわせるように彼女は静かに舞い始める。
 月の光が彼女の白い顔を照らす。
 誰もいない。誰も見ていない。
 だが彼女は一人舞い続ける。祈るように。
 生まれてから嫁ぐまでここで舞うのは彼女の役目だったから。
 藤森の巫女としてずっと舞い続けるものだと思っていた。
 舞っていた時間はとても長く感じられた。この世の偉大なる力と一体化するような高揚感。それが彼女は心地よかった。
 舞が終わる。扇を下ろした彼女は一息つき、そのままうつむいていた。
「・・・・・・千沙様」
 心配そうな声が聞こえた。
「青嵐ね。先に休んでいていいっていったのに」
「そうは参りません。千沙様が休まぬうちはわれとて休めませぬ」
 頑迷な青い《式》に千沙はくすりと笑う。
 《式》は彼女の守り手であり、よき話し相手でもある。
 ずっと昔から彼女に従ってきた彼らは彼女のことを誰よりも、そう、冬馬や裕次郎よりも知っているといっても過言ではない。
「ねえ、青嵐。覚えていて?」
 そういって彼女はすっと細い指先を伸ばした。その先には小高い金木犀の木が生えていた。金木犀は小さい橙色の花をたくさんつけて、あたりにかぐわしい香りを漂わせていた。
「あの時も金木犀が咲いていたわ。秋の月夜、私はいつものようにこの神楽殿に一人で舞っていた」
 昔を思い出すように遠くを見る目。青嵐は黙って彼女の話を聞いている。
「舞っている途中で誰かの視線を感じて振り向いたら、金木犀の木の影に立ち尽くすあの方がいたの。あの方はずっと動こうとはしなかった。懐かしいわ。あれからずいぶんと月日がたってしまったのね」
「千沙様、まだお帰りにはなれませんか?」
 その問いにしばらく黙ってから彼女は小さくつぶやいた。
「まだよ。まだ駄目だわ。あれは隠れている。それに私もまだ準備が整っていない。せめて満月が近ければよかったのに」
 そういって彼女は神楽殿から月を見上げた。
「月は日に日に欠けているわ。これから闇の力が強くなる。闇の力が強くなってきている以上、私はむやみに動けない。わかるでしょう? だから今はここで舞うことでさらに身を清めなくては」
 そういって彼女は扇を両手で持って片ひざを立てた。
「藤森の神よ。私に神のご加護を」
 再び鈴の音が鳴り響く。
 無心に舞い続ける千沙の黒髪が流れるように宙を舞う。神楽殿の周りだけがほのかに光っているように見えるのは気のせいだろうか。
青嵐は姿を隠したまま、じっとその場に控えていた。その目は神楽殿で舞う千沙を捕らえて離さないであろう。
 すべてを見届けるかのように。
 神楽殿に鳴り響く鈴の音はそのあとしばらくやむことはなかった。


月は煌々と地上を照らす。
闇に隠された何かを暴き出すように。
しかし闇もまた月を覆い隠し、すべてを飲み込まんとしていた・・・・・・。
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