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 客間に敷かれた布団の中で裕次郎は意識を失って眠っていた。
 傍らにいた千夏がたらいに入った冷水から手拭を取り出し、小さな手でぎゅっと絞って裕次郎の額にのせた。
「大事はない。いまのところはな」
 裕次郎の様子をみていた浅黄がつぶやいた。
「だがこの状態でこれ以上生気が失われたら、最悪の場合命の危険もありえる」
「姉上には?」
「もちろんご報告いたしました。あの方は、まだ大丈夫よ、意外と丈夫だから、とおっしゃっただけですが」
「何が大丈夫なもんか。目の前で倒れたんだぞ、義兄上は。心配してないのかよ!」
 冬馬の怒りに浅黄は眼を伏せて無言で答えた。
「だいたいあの姉上の態度はどういうことだよ。理由もはっきりいわないで自分ひとりだけで怒ってる。義兄上がいくら謝っても聞き入れない。あれじゃあ、義兄上が哀れだっ!」
「たしかにそうだけど、お兄様がそういいたくなるのもわかるけど、でも・・・・・・」
「それに、姉上が義兄上のことを心配しているんだったら、意識が戻るまでここについているのが仮にも夫婦として普通だろっ! それが部屋にこもったまま一度も顔を見せないんだぞっ! もう頭来た!!」
 立ち上がってずんずん廊下のあるほうへ歩いていく。
「どこ行くのよ、お兄様」
「姉上のところに決まってんだろ。これから直談判しに行く!」
「ちょっと待って。そうしたってたぶん無理よ」
「だからってこのままでいろってか!?」
 言い争う二人の間を割って入るように浅黄が重い口を開いた。
「千沙様は裕次郎殿のことを心配していないわけない。ただ今はご自分が裕次郎殿のそばにいることができないのだ」
「それは俺もさっき気づいた。姉上の力はずば抜けているからな。その影響で義兄上が妖に引っ張られてあんなふうになって、姉上はそばから離れて義兄上の身を守ろうとしたと思った。だけど、それにしたって・・・・・・」
(自分のせいだってわかってんだったら、あんなに冷たくすることはないじゃないか)
 冬馬はぎゅっとこぶしを握り締めた。
「とにかく他の理由があるのよ、きっと」
「根拠はあるのか?」
「ううん、これは女の勘。でも外れてもいないはずよ」
「浅黄、ほかに何か知ってるのか?」
 冬馬が浅黄を振り返ると、黄色い衣の童は小さくかぶりを振った。
「今、私が言えるのはこれだけだ」
 姉上が言うなと命令したのか。主の命令は絶対だからこれ以上は口を割るまい。
 本当ならこの場に姉上を連れてきたいところだが、千夏はやめろというし、浅黄も承知しないだろうからあきらめた。
「姉上がここに来ないなら、俺がここで義兄上の具合を見ている。何か手がかりがつかめるかもしれないからな」
「あ、私もー」
 はあい、と千夏が手を上げる。
「わかった。邪魔はするなよ」
「失礼ねえ、具合の悪い人のいるところでそんなことしないわよう」
「どうだか」
「お兄様こそ見張ってるつもりでしょうけど、居眠りしちゃ駄目よ」
「うるさい」


 あたりは夕闇に包まれた。一つ、二つと濃紺の空に星が瞬き始める。
 千沙は自室の縁側から天を仰ぎ見ていた。
 月はまだ空に昇ってはいない。なれど昨日よりもさらに細く鋭くなっているはずだ。
「あと少し。もうすぐだわ、待っていなさい」
 口元だけを少し動かして妖しい微笑を浮かべる。
 あと少しなのだ。あと少しですべては終わる。
 しばらく空を見上げたあと、そのまま何も語らず千沙は自室へ引き上げた。
 今日も神楽殿へ行かねば。少しでも時間が惜しい。
 今日の夕餉はいらないとそばに控えた童たちに告げて、彼女は部屋の障子を閉めた。


 空は徐々に暗くなっていく。寂しい秋の夕闇。
 屋敷はしん、と静まり返っていた。
 そして、夜になった。
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