第四章 華の闇
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リ、リ、リ、と庭から虫の音が聞こえる。懐かしくて、それでいて寂しい。
虫の奏でる清らかな調べに冬馬の意識が朦朧とする。
ついうとうとして、身体が傾いだ瞬間にはっと眼を覚ます。
(いけない、いけない)
眠いまぶたを手の甲でこすって、目の前で横たわる裕次郎を見つめた。
結局、夜になっても姉上はここを訪れなかった。
そういえば夕餉もとっていなかったな。自室にこもったきりなのだろうか。なにをやっているのだか。
すでに夜も更けている。
月も昇っている刻限だ。本来ならもうとっくに眠っている時間だ。
静まり返った屋敷に虫の音が響く。
(虫の音って静かだとこんなに大きく聞こえるもんなんだな)
傍らからはくー、くー、とかわいらしい寝息を立てて千夏が寝ている。あれだけ自分も起きていると言い張ったくせに、いつの間にか自分に寄りかかって寝ていた。
今のところ何も起きていないし、起こすのもなんなのでそのままにしている。
浅黄の姿は見えない。ただ姿を消しただけで、どこか近くに潜んでいるんだろう。
姉上の命令はまだたぶん解かれていないから、ここから離れないはずだ。
目の前で眼を覚まさない裕次郎の顔を見た。
眼はくぼみ、顔は青ざめている。精悍な彼の姿を知っている冬馬からすれば信じられない。これではまるで病人のようではないか。
(心配にはならないのかな)
そばにいたいと思うのが普通じゃないか。大事な人なら。
冬馬はふと自分の母親を思い出した。
母親も自分を生んでからは病気がちで、いつも床から離れられなかった。
自分は小さくて、甘えたくて、ずっと母親にくっついていた。あなたがいると眠れないでしょうといわれ、姉が自分を引き離そうとすると泣いて嫌がった。
なに今そんなこと思い出してるんだろうな、俺。
俺は小さくても離れているうちに母親がこの世からいなくなってしまうかもしれなくて、不安で、不安で離れられなかった。泣き叫んででも離れたくなかったんだ。
思わず涙ぐみそうになって、冬馬は頭を思いっきり左右に振った。
(駄目だな。静かだと余計なこと考えちまう)
母親のことはもうとっくの昔にすぎたことだ。
再びまぶたを手の甲でこすって冬馬は顔を上げた。
そのとき、目の前に黒いものが浮かんでいた。それは眠る義兄に覆いかぶさらんとしていた。
「なに?」
見間違いかともう一度手でまぶたをこすったが黒い影は消えなかった。
影は手のように触手を伸ばし、裕次郎の頬に触れる。
危ない、と冬馬は傍らにおいてあった刀に手を伸ばした。
「起きろ、千夏。出たぞ!」
叫んで彼は鞘から刀を抜き放ちざま、横に勢いよくなぎ払った。
だが、影は刀が切り裂く寸前で霞のように消えてしまった。
「きえ、た?」
戸惑う冬馬の横では支えを失って倒れた拍子に眼を覚ましたのか、寝ぼけまなこの千夏が目をとろんとしながらきょろきょろと辺りを見回していた。
「もう、なによ、お兄様ぁ」
「怪しいやつが出たんだ。気づかなかったのかよ、お前」
「ええぇ」
冬馬は立ち上がって辺りを見回したがもう怪しい気配はどこにもなかった。
「逃げられたか。それにしてもどこへ」
横たわる裕次郎を見たが、さっきと比べてもあまり顔色が悪くなっていない。どうやら生気はあまり抜かれなかったようだ。
ふう、と一息ついて冬馬は刀を鞘に納めた。
部屋の片隅に浅黄が現れた。
「あの影、気配がしなかった」
冬馬は軽く驚いた。《式》たちの筆頭の浅黄が気づかなかった。それだけ気配を隠すのが巧妙なのか。
「いや、むしろ気配がない、といったほうがいいのかもしれぬ」
「たしかにここにいるという感じがしなかった」
どんな妖怪でも消えた後に妖気などの残滓が残る。だがそれがない。
おかしなことばかりだ。
「どこから来て、どこへ消えたのか、それすら突き止められなかった。私がついていながら、千沙様に申し訳が立たぬ」
「ほんとに煙みたいに消えちまったな」
だけど、と冬馬は確信的に言い放った。
「あいつはまた現れる。きっと義兄上のことをあきらめてはいない気がする」
その言葉に浅黄もかすかにうなずいた。
今度こそ、正体を確かめてやる。