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「まだね」
「まだだな」
 二人は並びながら裕次郎の部屋を伺った。
 彼は疲労がたまっているのか早々に床につき、それを見計らったかのようにこっそり隣の部屋に待機してふすまの隙間から裕次郎の様子を伺っていた。
「それにしてもお義兄様ってすごいわよね。あれだけふらふらなのにお姉様の部屋の前でがんばってたんだもの」
 小声で千夏が言う。
 そう、あんな状態にもかかわらず、今日も千沙の部屋で謝っていた。彼女は相変わらず相手にしなかったが、閉じられた障子の前で待っている裕次郎に黒曜と白露が差し入れを持ってきていた。黒曜が板敷きの廊下は坐っていると冷たいからと座布団を、白露が無言で温かいお茶と菓子を渡していた。
 この間ひどいことをしたお詫びだという。その様子からして裕次郎はけっこう《式》たちに慕われているようだ。
(子供が好きだからな、義兄上)
 どのくらいねばったのかはわからない。だががんばりすぎて疲れてしまったらしい。
 無理のしすぎはよくない。
 冬馬は空を見て時刻を測った。
 空に月が出て来ていた。そろそろ刻限は子の刻になるはずだ。
 だがまだ裕次郎のそばへあの影は現れない。
「何か変なことがあったらすぐ飛び出せよ」
「わかってるわ」
 先ほど寝ている裕次郎の頭に手を触れて、千夏が彼の夢の内容を探った。
 どうやら暗闇の中に咲く桜の前に立っている夢を見ているようだ。裕次郎のほかには誰も出てこない。樹齢数百年を越える老木の桜と、彼の姿だけが闇の中に浮かび上がっていた。
 闇に舞い落ちる桜の花吹雪につつまれて、裕次郎はひとりたたずんでいるだけらしい。
 別に変なものはないようだが。
「もうちょっと面白い夢を見たほうがいいのに。どうせだったら満漢全席のご馳走が並んでいるとか」
「おいおい、そんなものが並んでたって結局は食えないんだろ」
「ふっ、甘いわね。夢でも強い欲望と意志の力があれば味だって匂いだって再現できるのよ!」
「それはおまえだけだろうが、食いしん坊」
 どういう意味、とつかみかかろうとした千夏を制止した。
「おい、出たぞ」
 裕次郎の額からもやもやと黒い影が浮かび上がってきた。
 昨日のそれよりも大きく、影がはっきりしている気がする。
「あれね」
 千夏もふすまの陰から伺う。顔に渋面を作って唇をかみ締めた。
「やっぱり、気配はしないわ。あれは完全な影。残像のようなものよ。あれじゃあ気づけないはずだわ」
「本体はわかるか」
「額から出てきたから、たぶん推察どおり夢の中ね。いいわ、行きましょう。お兄様!」
 ぱん、と勢いよくふすまをひらいて冬馬と千夏が飛び出した。
「千夏、お前は本体を探れ。俺はとにかくこの影のほうをたたっ切る!」
「了解! いくわ・・・・・・えっ!」
 構えて夢の中へ飛び込もうとする千夏をさえぎるように立ちはだかったものがいた。
「なんで邪魔すんのよ、黒曜!」
「ごめんなさい、でも駄目なんです」
 拝むように頭を下げるが、頑として裕次郎からどかない。
 はっとして廊下のほうを見やると、そこには千沙が《式》を従えて立っていた。
「姉上!」
 紅葉の模様をあしらった着物を着た千沙は静かに黒い影を見つめていた。従う《式》たちもだれもが無言だった。
 影がこちらに気づいた。逃げられると思った冬馬が刀に手をかけようとすると、浅黄がそれを手で制する。
 ゆらゆらと黒い影が揺れる。揺れて形が崩れる。
 無表情のまま千沙は口を開く。
「消えなさい。消えればまだそれほど痛い目を見なくてすむわよ」
 だが影はその言葉に歯向かうように一瞬大きく広がった。
「そう、それが答えなの」
 わかったわ、とつぶやいて、冬馬のほうに向き直った。
「いいわ、あれは切っておしまい」
 なんで、といいたかったが彼は倒すのが先と、刀を抜きざまに切りはなった。
 手ごたえはまったくなかったが、影は機能と同じく瞬く間に消えてしまった。
 その様子をただじっと見つめている千沙だったが、影が消えたのを確認するとくるりと背を向けて立ち去ろうとした。
 その背に冬馬は叫ぶ。
「姉上、どういうことですか!」
 姉は何かを確かめにきたのではないのか。あの黒い影を見つめた彼女の瞳には言い知れぬ炎のようなものが宿っているのが感じられた。
 どういうことだろう。
 姉はあれの正体に気づいている?
 だからわざわざそれを確かめにきたのではないのか?
 しかし千沙は意味ありげな微笑を浮かべただけで、何も言わずその場を立ち去ってしまった。
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