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『なにをする、やめて、やめておくれ!』
 狂乱のさまで女が泣き叫ぶ。苦しそうに顔をゆがめながら叫び声を上げていた。
 その様子を眉一つ動かさず眺める千沙。
 口元で微笑みながら彼女はただ止めることなく見つめていた。
『やめて、やめて! 助けて!』
 精霊は息も絶え絶えに手を千沙に伸ばすが届かない。
「お前は禁忌を犯した。藤森の巫女である私の夫に手を出した。それがどのような意味か身を持って知るのよ」
『いやぁぁぁぁ!』
「ただ消えるより苦しいでしょうね。私の式である浅黄は命を司る龍。生命を助けることも、そして絶つこともできるわ」
 口元に手を当てて悠然と微笑む。
「苦しい? 消えるのが怖い? でもそれはあなたが犯した過ちに対する報いよ。相手が悪すぎたわね」
『あぁ、あぁぁぁぁぁっ!』
 桜の花はもうほとんど散りかけている。生命の終焉を示すかのように、すべて散ろうとしていた。
「どうやら、この樹は現実のあなたの本体とつながっているみたいね。夢の中で自分の樹と繋げたのが命取りになったわね」
 桜はこの精霊の本体。この樹がなくなれば存在すらできなくなる。おそらく力を得るために現実と繋げたのだろう。
 夢の中で愛しい裕次郎を捕らえるために。
 すべての花が地に落ち、やがて巨大な桜の樹もぼろぼろに枯れ始めた。かさかさと表面が乾いていき、枝が無残にも落ちて砕ける。
 精霊の女もまた樹と共に消えようとしている。
『渡さない、そなたには渡さない、渡すものかぁぁぁ!』
 精霊は裕次郎の意識を抱きしめたまま、体を燃やし始めた。
「まずいわっ! あのままじゃ意識ごと燃やされて、お義兄様の意識が戻らなくなる!」
「なにい! おい、黒曜、お前の水であの炎を消せ!」
 黒い龍が体をくねらせて雨を降らせるが、火は一向に消えない。いやむしろ一層烈しく燃え上がっているようだ。
「これが最後の執念って奴ね。まったく厄介だわ!」
「どうするんだ、あのままじゃ義兄上が・・・・・・」
「意識をここに呼び戻すのよ。捕われているのを解放すれば自分で逃げられる!」
 ふと千沙が何かを考えついたように、水葉のほうをかえり見た。
「水葉さん、あなたどんな幻もつくれるのかしら?」
「ええ、私がわかるものなら」
「つくって欲しいものがあるの。ここにたくさん、思い切り香りを強くしてね」
 そういって水葉の手をとる。手を通じて彼女の脳裏に流れ込んできたのはむせ返るほど香る金木犀の香り。
「これは・・・・・・」
「かぐわしい香りのする金木犀の花をたくさん作り出して。この香りで戻ってこなければしかたないけれどあの人もここまでってことになるわ」
 早く、とせかされて水葉はありったけの力をこめて幻を具現化した。闇に咲き誇る黄金の花。そしてあたり一面に漂う金木犀の香り。瞬く間に彼らは金色の花に包まれた。
 金木犀の花のあまりの香りの強さに冬馬は鼻を押さえた。
「うう、なんでこの花なんだ?」
 匂いに負けてたまらず下にうずくまる冬馬は放っておいて、千沙は動かない裕次郎に呼びかけた。裕次郎が言っていた夢の中の香りというのはもしや・・・・・・。
「裕次郎様、この香りを覚えていますか?」
『いまさらなにをする、私たちの邪魔をするでない』
「あの日、月夜の晩に神楽殿で始めてお会いしたあの時の花の香りです」
 彼女の目はひたと裕次郎を見つめている。昔を懐かしむような優しい眼差し。
 そのまま千沙は右手を彼にむけて伸ばした。
「私の元へお帰りなさいませ。裕次郎様」
 手のひらを上にして伸ばされた手。炎が彼女の手を焼こうとしても決して引こうとはしなかった。
 千沙は手を差し出したままじっと待った。
「・・・・・・ち・・・・・・さ?」
『なに?』
 裕次郎の口から声が漏れた。生気のなかった瞳に光がともる。
「千沙・・・・・・・」
 再び彼女の名前を口にして、彼は手を伸ばした。ゆっくりとゆっくりとその距離は縮まっていく。
『駄目じゃ、駄目じゃ。私をおいていかないで!』
 精霊が泣いてもその声はもう届かない。とめることもできずに彼女は泣き崩れた。
 二人の手が触れる。その瞬間、精霊の腕の中から裕次郎の幻は消えた。
「お義兄様が解放されたわ!」
 水葉が叫ぶと、呼応するように龍となった浅黄が甲高い咆哮を上げる。
 桜の樹は最後の花を散らし、そして枯れていった。もだえながら桜の精霊が崩れ落ちる。
『あぁぁぁ、裕次郎、さ、ま。私を、一人にしな、い、で・・・・・・』
 消え入るような言葉を残して、桜の精霊は姿を消した。そして桜の樹もまた夢の世界から消えていった。
 すべてが終わったのを見届けると、千沙は五色の龍に札の中に戻るように命を出した。
 光と共に空の龍が消え、残ったのは金木犀の花に包まれた三人だけだった。
「あーあ、俺は何しに来たんだか」
 ふう、とため息をついて桜の樹の残骸を眺めた。
「まあいいじゃないの、たまには出番なしでも」
 慰めるように水葉がぽんぽんと肩をたたくが、冬馬は疲れたようにまた深いため息をついた。
 二人からはなれたところで千沙は一人たたずんでいた。
 裕次郎が触れた右手をそっと胸に押し当てて、誰にも聞かれない声でつぶやいた。
「無事でよかった、裕次郎様」
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