長かった梅雨の合間、久しぶりに空が晴れわたった日だった。
 ひさしぶりに顔を覗かせた陽が穏やかな光を照らす、うららかな昼下がり。
 新緑の葉はみずみずしく、木漏れ日がその重なり合った隙間からこぼれている。
 誰もがまどろみたくなる時間。
 縁側の日溜まりで、うとうとと居眠りをしていた白猫が突然毛を逆立てて飛び上がった。
 廊下の向こうから走ってくる激しい足音と、怒声。
 いちはやく危険を察知した猫は、前後不注意な人間に踏みつぶされる前に廊下を飛び降りて、庭先へと逃げ去ってしまった。
 向こうから廊下を走ってきたのはまだ少年の気配のする若者。
 目的の部屋の前で急停止して、勢いよく彼は怒鳴った。
「親父ーーーーっ!」
 廊下のど真ん中で息を切らしながら冬馬は部屋の中を見回す。
 顔がほんのり赤く上気しているのは、はるか向こうの玄関から走って来たためだけではない。
 右手で乱暴に握りしめられているのは何か書かれた書類らしき紙。握る力を強めるたび、手に血管が浮かび上がる。
「どこに隠れてやがるんだ、あの馬鹿親はっ!」
 荒々しく足音を響かせて冬馬はさらに、部屋の奥へと進んだ。その向こうは父親の自室。しかし冬馬はためらうことなく先に進む。
 板敷きの床を踏みしめるたびに木板が擦れ合って鈍く鳴る。
 一番奥の部屋。ふすまで仕切られたその部屋の前で冬馬は足を止めた。ふすまで仕切られた向こうから子供の笑い声がする。
 いる、と直感した。間違いはない。
 冬馬は目をつぶり、ゆっくりと息を吸って、吐いた。
 きっと怒りに燃えた眼で前方をにらみつけ、ばんっと勢いよくふすまを開けた。
 広がった視界から彼の目に飛び込んできたのはお菓子をもらって喜ぶ村の子供たちと、それをだらけた満面の笑顔で喜ぶ中年の・・・・・・。
「こんなところにいやがりましたか、御父上」
 低く、それでいていやに静かなその声には紛れもなく沸き立つ怒りがにじみ出ていた。本当ならすぐさま胸ぐらをつかんで怒鳴りつけたいところだった。
 しかし子供達の手前もあり、わずかに残った理性をかろうじて保ちながら、ギリギリのところで自分を抑えていた。
 そんな彼の心情を分かっててわざとなのか、分からないほど鈍いのか、冬馬の父である春光は相変わらずにこにことしながら、冬馬にもその菓子を差し出した。
「ほれほれ、何をそこに突っ立っておるんだ? 菓子でも食わんか? なかなかにうまいぞ。何でも最近城下町で人気のある有名な菓子だそうだぞ」
 だが冬馬の表情はぴくりとも変わらない。
 なおも手を伸ばしたが、彼は受け取ろうとはしないので、ちょっと残念そうな顔をして自分の口にその菓子を頬張った。
 横目で子供たちが菓子を取りあっているのを見て、春光はけんかを止めようと声をかける。
「こら権吉、おまえはもう三つは食べただろう。敏坊、妹のものを取るんじゃない」
 めったにたべれない甘い菓子を食べながらきゃわきゃわ騒ぐ子供たちの世話にてんてこ舞いの父親を、冬馬は冷ややかな眼でじっと見つめていた。
 やっと子供たちが帰ってから、押し殺した声で冬馬は父親に声をかけた。
「父上、お聞きしたいことがあるのですが」
「なんだ?」
 振り向いた春光の顔面に手にした紙を突きつけた。
 ちょっと後ろへ退いてからしげしげとその額面を読んだ。
「なになに? このたび門屋辰蔵は藤森神社の神主の春光殿に五両の金を貸したところ、その返済期間を過ぎてもいまだ返されず。よって・・・・・・おや、何でおまえがこんな手紙を持っておるのだ? はてさて、なぜかの・・・」
 あまりにも人ごとのようなのんきな声に、冬馬の頬が引きつった。こみ上げる何かをこらえようとしているのか、彼は瞼を閉じて顔をこわばらせたまま、さらに彼の声音が低くなる。
 口調だけが静かなのが逆に不気味だった。
「今、金貸しの辰蔵の手代が私宛に持って来たものですが、何ですかこれは。はっきりとお答えください」
「さて、何を答えるのだ?」
「・・・・・・父上、これは一体どういったことですか」
「どうとは?」
「一体この金を何のために借りたのかと聞いているんです!」
 ついに抑えに抑えていた怒りが吹っ飛んだ。我慢と忍耐の精神はどこかかなたへ消えて、怒り沸騰の冬馬は父親に向けて怒鳴り散らし始めた。
 あいにくと彼は気の長い性質ではなかった。
「借りた日は去年の秋口、入り用だからと金子で五両をその場で渡したと。藤森の神主自らが借りていったと手代は証言しているんですが、ね」
「去年の秋、なんだったかな。最近物覚えが悪うて」
「ぼけるのはこの借金が何だったのか思い出してからにして下さい。その後でぼけたのであれば一向にかまいません。この家の離れは日当たりが実に良いですから、老人が住むには最適でしょう。もちろん誰か茶飲み友達になる者でも雇って、付きっきりで面倒を見させますからご安心ください。どうせ父上のことだ、どこかへ行くと言ってふらふらと迷子になるのが分かりきってます。家が分からなくなって途方に暮れる前に、部屋から出させないよう見張りもしっかりとさせますのでご安心を」
 言葉遣いは丁寧だが、あまりの言いぐさに閉口して春光は上目遣いに冬馬を見上げた。
「・・・・・・きついなあ、おまえ、ちっとは親を敬ったらどうだ?」
「そうして欲しいのでしたらもっと敬いがいのある親として、せめて態度だけでも示してくださると嬉しいんですがね」
 勢いよく冬馬はその手紙を床にたたきつけた。
 ここに、と彼は手紙の一文を指し示した。
「この借金の保証人が藤森冬馬と書かれておりますがこれはどういうことでしょうか? 先ほど手代から証文を確認させてもらったところ、父上の名前の次に私の名前が書かれていましたが、これは何の間違いでしょうか。私にはそのようなことをした覚えは全くありません。どこの誰が、私の名前を勝手に使ったんでしょうか。・・・・・・ねえ、父上っ!」
「・・・・・・のわっ! うおっ」
 胸ぐらをつかみかかろうとした冬馬の手をくぐり抜けた。とても四十を過ぎた中年とは思えない敏捷な動きだった。
 なおも捕らえようとのびる冬馬の手をくぐり抜けて、春光はひらりと縁側を降り、庭の垣根を越えて逃げてしまった。
「父上ーーーっ! この借金どうするんだーーーっ!!」
 顔を真っ赤にして、冬馬は力の限り叫んだ。足下ではずたずたになった手紙がごみのように落ちている。
 しかしもう叫ぶ相手はどこかへ行ってしまっていた。
 遠くに消えた父親に向かって、冬馬はさらに怒りを込めて大声でわめいた。
「後で、覚えてろよーーーっ!!」
第一章 狐の少女
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