「それで五両の金を貸して欲しいと」
 板敷きの床に座って冬馬は物腰の大人しそうでいて、どっしりとした風格の人物と対峙していた。
 ここは藩の城下町にある笹岡道場の控えの一室。この道場で冬馬は門人として剣の修行をしていた。
 道場の方から激しい掛け声とともに木刀がこの離れの部屋にまで響いてくる。厳しい打ちこみで知られる笹岡道場は藩でも一二を争う道場として栄えている。
 言葉を発した男は差し出された茶をずずずと音を立ててすすった。
 この男は速水裕次郎という藩士だ。三年前、この者に冬馬の姉である千紗が嫁いでいる。そのため冬馬にとって速水という人物は義兄にあたる。
 千紗が嫁いで以来、彼女からの便りでは穏やかで仲むつまじい暮らしをしているというが、時折裕次郎の困り果てた表情から実態はどうもそうではないらしい。
 無理もない、とその理由が察せられる冬馬は速水に深く同情していた。あの姉が大人しく従うとは思えない。現に千紗が嫁いでから藤森の神社はかなり静かになった。
 ただ速水は千紗に完全に惚れている。だからこそ、何を言われようとも許してしまうのだろう。
 冬馬と速水は藩の城下町にある笹原道場の同門である。同じ剣の境地を志す身で師範代と道場生という関係もあり、二人は以前から仲が良い。姉が速水に嫁いだのも神社に訪れた彼が姉を見初めたのが縁であった。
 速水は冬馬よりも4つほど年上である。細身の冬馬と違い、速水の筋肉は隆々とした大男だ。
 兄のいない冬馬にとって自分よりも大きな速水はつねに兄がわりの存在だった。そのため冬馬は剣術など自分の悩みを気軽に相談したりすることができる。
 さまざまなことを考慮して冬馬は五両の大金を借りられるのはこの人物しかいないと結論に達した。それで今日、道場でその事をありのままに話したのだった。
「それで義父上殿はいまだ何に使われたのか打ち明けてくれないのか」
「はい、相変わらずとぼけておりますので」
 ふうむ、と速水はしばし思案した。しばらくしてぽんと膝を打った。
「よし、他でもない義弟殿の頼みだ。金は貸してやろう。ただし五両の金は少しずつ分けてでもいい。必ず返済するように」
 そういったのはたぶんけじめのためだ。
「ありがとうございます」
 床に頭をつけて礼をする冬馬をやめてくれといって顔を上げさせた。
 気にするなと、からから笑いながら速水は言う。
「千紗のためにも当然のことをするまでだ。ただ、義父上殿が一体何に使われたのか話してもらいたいとは思う。冬馬、これから藤森神社に行ってその理由を聞き出して来よう」
 立ちあがった速水は冬馬と連れ立って道場を出ると、神社への道を歩き始めた。
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