神社の鳥居の下についた時、冬馬は思わず辺りを見まわした。
 見まわして胸をなでおろして安堵する。
 さっきの自称を狐とかいった物の怪は多分どこかへ消えたのだろう。
 静謐な神社の神気の中に、あいつの妙な気配は感じられない。
 あんなものに関わられてたまるかと冬馬は心の中で叫んだ。
 境内に立ちつくす冬馬を残して、裕次郎は早々と神社の裏手へまわって行く。彼は神社から少し離れて建っている館の中に入った。
 彼も昔からよく訪れていたおかげでこの館を知り尽くしているため、先に父親の元へ向かったのだろう。冬馬も急いでその後を追う。
 館に入った時、パタパタと廊下を走る音がした。
 またどこかの子供が館に上がりこんでいるなと思って、足音のした方向を振り向いた。
 視界の片隅で黒髪をなびかせた女の子が角を曲がって消える。
 冬馬の身体が硬直した。なんかいやな予感がする。
 一瞬だったので顔は見えなかったが、その女の子が向かった先には父親の部屋がある。
 わらじを脱ぎ捨てて、彼はすぐさま早足で廊下を駆けた。
 目的の部屋の障子を開けると、簡素な畳の上で父親と裕次郎がむかいあって座っていた。二人は茶碗を手に話をしていたようだ。
「どうした、冬馬」
 裕次郎に声をかけられて、冬馬はわれに返った。
 部屋にいるのは二人だけ。どこをどう見てもその場にさっきの女の子はいなかった。
 あれは見間違いだったのだろうか。
「突っ立ってないでとにかく座れ」
 言われて冬馬は正座してその場に座った。
 彼らの目の前に父親がいる。そう、父親だけだ。誰もいない。
「冬馬が来たので本題に入らせてもらいたい」
 裕次郎は単刀直入に切り出す。しかし春光は扇を閉じて次の言葉を遮った。
「おおかた借金の理由でも訊きに来たのだろう。しかしそれは今しばらくご容赦願いたい。わざわざ足を運んでくださった速水殿には申し訳ないが、もう少ししたら冬馬にもきちんとその理由を話そうと思っている」
 きっぱりそう言われても、裕次郎は再び問う。
「なぜ今その理由を訊かせてくれないのですか?」
「なにごとにも、時というものがあるのだよ」
 あきれて春光を見返す冬馬と、口を閉ざして考え込む裕次郎。
(何を言い出すかと思えば……時がどうしたというのだ?)
 まだ人生も経験も足りない冬馬には父が何を考えているのか見当もつかない。戸惑う冬馬を眺めながら春光は口元で笑った。
「親父、いいかげんに・・・・・・」
 立ちあがった冬馬を今度は裕次郎が遮る。彼は小さく厳しい声で激昂した冬馬を諌めた。
「冬馬、父上には父上のお考えがあってのことだろう。理由は後でお話になってくれるといった。それで良いではないか」
 そう言って冬馬を止めた彼は春光を真正面から見据えた。
「催促がきているというので今回は私がその借金を立て替えます。ただし、返済は冬馬ではなく、春光殿がなさってください」
「わかっているよ」
 苦笑する春光を見て冬馬は本当に分かっているのかと疑う。
 仲裁に裕次郎にこれでいいなと言われては頷くしかない。不本意ながらそれを受け入れて、話は終った。
 その時だった。あの廊下を駆ける軽やかな足音が耳に届いたのは。
 どうやらさっきのはやはり錯覚ではなかったらしい。
 足音は障子の向こうで止まる。
「お話は終わりになりましたか?」
 薄い紙の障子を挟んで廊下から声が聞こえた。鈴の音を思わせる涼しげな声は少女のもの。
 どこかで聞いたことがある、と冬馬は思った。
「おお、こちらへおいで」
 春光は障子に隠れて姿をあらわさない子供を手招きした。
 影からひょっこり現われたのは、背中で綺麗な長い黒髪を切りそろえた女の子。
 その少女は一直線に春光に抱きついた。その反動で白髪の目立ち始めた老体が傾いた。
「こらこら、そんなに勢いよく抱きつくんじゃない。一応これでも年寄りなのだからな」
 女の子を膝の上に抱きかかえて、目を丸くする冬馬と裕次郎の方を向いた。
「この子は親戚の子なんだが最近親を亡くしてな。誰も引き取り手がないようなのでこの家で育てることにした。・・・・・・ほら、名前をお言い」
 促されて女の子はその顔を二人に向けた。まだ幼くあどけない顔立ち。綺麗な黒の目に二人の姿を映している。
「はじめまして、千夏と申します」
 ぺこりと頭を下げた千夏を見つめたまま、冬馬は凍りついて動かない。
「千夏殿か、私は速水裕次郎だ。この者の義理の兄にあたる者だ」
 裕次郎が気さくに手を指し伸ばすと千夏はぴょんと飛びついた。そのまま抱き上げて千夏は肩の上に抱き上げられた。
「なかなかかわいい顔立ちをしているな。私も早くそなたのような娘が欲しいものだ。……ん? どうした冬馬、何を黙っている」
 彼の言葉は冬馬の耳には届かない。
 冬馬の目は目の前にいる千夏に釘付けにされていた。
「な、ぜ」
 疑心と混乱に満ちた言葉で冬馬はつぶやいた。
 千夏の姿を見た時から冬馬には見ぬいていた。人の目には黒髪に黒目の普通のかわいらしい少女としか映らなくても、彼の目は真実を捉えていた。
 千夏は人ではない。
 あの境内であった《狐》だ。間違いはない。
「父上、どう言うことです。これは・・・・・・っ!」
 なぜここの家に狐の妖がいるのだと、父親に向けて叫ぼうとした。
 視界の端で千夏の眼が妖しくきらめく。
 その瞬間に異変は起こった。
 いきなり言葉を投げかけようとしていた彼の喉に何かが詰まった。
 息をすることすらおぼつかない。突然激しく咳き込み始めた冬馬を裕次郎が何事かと声をかける。
 唐突な出来事だったので、何が起こったのかわからなかった。どうしていきなり喉に物が詰まらなくてはならないのか。
 傍らで見ていた二人には冬馬がいきなりうつむいて咳をしているようにしか見えていない。
 喉を手で押さえながら、彼は千夏に厳しい視線を向けた。視線の先で《狐》の少女は口元でかすかに笑っている。
 ―――まだあなたに正体をばらされるわけにはいかないのよ。
 少女の眼はたしかにそう言っていた。
(こいつの仕業か)
 しかしそうと分かっていても冬馬にはどうすることも出来ない。苦しくて咳き込んでいると、自然に涙があふれてきた。
 冬馬の一動を見ていた裕次郎が何を思ったのかそれをうれし泣きと勘違いして、見事に真実を取り違えてくれた。
「そうか、泣くほどうれしいか。千紗がいなくなってからそなたも義父上と二人きりでさびしかったとは。よかったではないか、このようなかわいい妹が出来て」
 ちがう、と冬馬は叫びたかったが、言葉が思うように出ない。まだ妙な妖術は解けてくれなかった。
 裕次郎の勘違いな言葉に、さらに上をゆく父親のとんでもない言葉が続く。
「そうそう、さびしゅうもんでな。千紗がおらぬとこの館も花がなくていささか侘しいものだった。冬馬だけではどうもなあ」
「わかります。千紗殿を迎えるまで、我が家もそうでしたから。しかし、千夏殿は利発そうだ。これは先が楽しみですな」
「それは老いゆく先の幸せというものだよ」
 冬馬をおいて二人の話はどんどん先へ進んでいっている。
 だが、どうしようもできない。
 好々爺な笑みを向けて、裕次郎の膝の上に座っている千夏の頭をなでて振り向かせた。
「千夏、おまえの兄になる冬馬だ。今は怖い顔をしているかもしれないがこれで心根はやさしい奴だ、そんなに怖がる必要はないぞ」
 千夏はおそるおそる覗き込むようなそぶりで彼をじっと見つめた。そして可憐な花のようなゆっくり微笑を浮かべた。
 濡れた黒曜の瞳だけが妖しい輝きを見せている。
「とうまお兄様」
 突然なれない呼び方で呼ばれて背筋に悪寒が走った。
 にっこりと千夏は冬馬に笑顔を向ける。
 冬馬に向けられた言葉一つ一つに《力》がこめられていた。それにだれも気づいたそぶりを見せない。
 冬馬だけを見つめる力強い眼差し。自分に逆らわせないという子供とは思えない、その気迫。
「千夏です。どうかよろしくお願いします」
 それが冬馬にとって受難の日々の始まりであった。
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