「お兄様、お兄様、待ってってば」
 パタパタと小さな足で冬馬の後を追ってくる。しかし、彼はそれをまったく無視していた。
 洗濯物の山を抱えて歩く冬馬。そしてその後を懸命に追いかけてくる千夏の姿。
 あれ以来千夏は彼に付きまとっていた。
 彼を幾度止めろと言ってもお兄様と呼び、猫のように甘えようとする。 あの父親はすっかり千夏の一見無邪気な笑顔に骨抜きにされ、速水もよかったよかったと勝手に納得して去っていった。
 真実を知る冬馬はやるせない気持ちで一杯だった。今も誰かに正体を言おうとすると口封じの術が働く。もうすでに何度か息を止めさせられて死にかけたので、今は自分の命のためにも何も言わずにいた。だが、断じて承知したわけではない。
 冬馬の意に反して、千夏は届け出も出した正式な養女として神社に居ついてしまった。それはもうどうすることも出来ない。村の者たちも千夏を神社の娘として認めてしまっている。
「どうして一人でやるって言うの。千夏も手伝うっていっているじゃない」
 甘えた声で千夏は自分よりもずっと背の高い彼を見上げた。
 物干し竿の前に洗濯物を入れた籠を下ろすと、冬馬は白い布を手早く物干し竿に始めた。
 見事に慣れた手際で一人黙々と干している。
 そんな冬馬をじっと見つめている千夏。
 彼女の非難するかのような視線が痛い。
 それに我慢できなくなってやっとのことで冬馬は閉ざしていた口を開いた。
「おまえ、いつまで人間のふりをしているつもりだ」
 千夏の方は向かない。手は休むことなく手際よく白布を干している。
 何を言うのかといった感じできょとんとした声で千夏は返事を返す。
「人間のふり? 《千夏》は人間だよ」
「おまえは人間じゃない、《狐》だ。自分で言っただろ」
 きっぱりと千夏の言葉を否定する。
 冬馬の言葉にふるふると千夏は首を横に振った。その動きにあわせて長い黒髪がふわりと風に揺れる。
 館の裏手の庭には冬馬と千夏以外の人の気配はない。
 嘘じゃない、と少女は訴える。
「《千夏》は人間、これは真実だから」
 一瞬間を置いてから、千夏は言葉を続ける。
「・・・・・・そうよ、たしかにそうだもん。私は神聖な《狐》に連なる者。でも別に真名があるの。人間としての名を与えてくれたのは父上様。だから人間の名を与えられた《千夏》は《狐》じゃないの!」
 それは謎かけ。解けるかわからない謎。
 一気に説明を言い放った千夏は心なしか顔が赤い。怒っているような顔をしている。
 だがそれに動じることなく、冷然と皮肉な調子で言葉を返した。
「やっと自分を狐と認めたか」
「でも分かったからといってどうすることも出来ないでしょ。千夏の術の仕組みを見破れないようだと、お兄様には絶対無理。このままだと一生無理じゃない?」
 痛いところを突かれた冬馬は反論することも出来なかった。
 言い返して御覧なさい、とばかりにあごをそびやかす千夏が憎らしいと思わずにはいられない。
 たしかに神社に入り込んだことといい、冬馬に妖しげな術をかけたことといい、千夏に、この狐の少女に相当の力があることは間違いなかった。それくらいのことはわかっている。
 そんなに力をもつ妖がなぜ自分につきまとうのか。ふと疑問に思った。
「それにしてもなぜ俺に憑いた?」
 その言葉にちょっとむっとしたらしい。
「またあたしを化け物扱いにするの? この姿の時は人間なんだからちゃんと千夏って呼んで。なに? あたしがここにいる理由? そうね、あなたが気に入ったから、かな。たいしたことじゃないわよ」
「・・・・・・それだけか?」
「それだけ、ほかにあると思う?」
 思わず冬馬は頭を抱え込みたくなった。
 これも物の怪に憑かれた、というのだろうか。狐憑きという言葉が冬馬の頭をよぎる。
(神社の息子が物の怪に憑かれたなんてしゃれになんねえぞ)
 彼の心を読み取ったかのように千夏が笑いながら声をかけた。
「だいじょうぶ、《千夏》は人間だって言ったでしょ。ただ見てるだけの人には誰もそんなこと分かんないよ。それにあたしがいると何かと便利なことがあるよ、絶対」
「・・・・・・なにが便利だ」
 くるりと彼は振り向いた。怒気をこめて冬馬は叫んだ。
「おまえにとりつかれて俺は迷惑だ。親父も、速水殿もみんな丸め込もうがおれは絶対におまえのことを認めないからな!」
「認めないって言われても千夏は絶対あなたから離れないよ」
「うるっさーい! いいからつべこべ言わずさっさと出てけっ!」
 冬馬の叫び声が響き渡る。その声はあまりに大きすぎた。
 静かにと千夏は人差し指を小さな口元にあてた。
「もう、冬馬お兄様ッたら。静かにしなきゃいけないでしょ」
「・・・・・・まずはその呼び方だ。気色悪いからやめろ!」
「いいじゃない、お・に・い・さ・ま」
 つん、と人差し指で彼をつっついた。
 やめる気はさらさらないらしい。
 からかわれ続けていた冬馬の堪忍袋の緒がついにぎりぎりと音を立てて切れ始めた。千夏を見下ろして彼は吐き捨てるように叫んだ。
「とにかく、これ以上俺の視界に入るな、わかったなっ!」
 渾身の叫びも千夏は満面の笑顔でかわした。
「絶対に、い・や」
 物干し竿の前でにらみ合う二人。
 冬馬はこめかみに血管が浮かび、ひくひくとまぶたが引きつっている。対する千夏はにっこりとした無邪気な表情を崩さず、笑顔で無言の圧力をかけていた。
 暖かい陽射がふりそそぐ、裏庭の隠された一幕。
 遠くから見ればみつめあう仲のよい兄妹といえなくもない。だが、現実は果てしなく遠く、絶壁の如く険しかった。
 見上げれば空は鮮やかな蒼穹。その穏やかな空を小鳥が軽やかに飛んでいる。
 地上のことは何も関わりないかのように季節はただ移ろうだけ。
 再び冬馬の罵声が天高く響き渡るまでにそう時間はかからなかった。
第二章 ささめきがどこかに
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