「これで全部か、かなり時間がかかったな」
 肩の力を抜いて、やれやれといった様子で冬馬は息をついた。
 長雨の降り止まぬ城下町は濡れしきっている。
 泥水のたまった地面を器用によけながら、彼は道を急いだ。右手に傘を差し、左手には頼まれた菓子の包みを抱え込む。
 道場を出てからすぐ城下町を西から東へと菓子屋を巡った彼は心身ともに疲れ果てていた。
(これからもずっとこんなお使いを頼まれそうだなあ・・・・・・)
 予想もつかない脅しとあの無邪気な微笑みで。
 そう思うだけで暗澹たる気分に陥って気がめいる。
 だが千夏に逆らえばいつか自分の命が危ないと思い知らされた冬馬に逆らうすべはなかった。
 梅雨の時期とはいえこの道は街道筋、行き交う人馬も多い。それだけ人々の往来が増えて、生活にもゆとりが出来てきた証拠だろう。
 冬馬の世代をはじめ、長い戦国の時代を知る者はもう数少ない。
 平和な世の中だ。戦うことももうないだろう。
 仕事帰りでにぎやかになりはじめた食べ物屋の店先を通り過ぎながら、彼は自分の帰るべき場所へと帰ろうと足を速めた。


 城下町のはずれ近く、ここから神社へ延々と続く田園地帯の入り口まではもうすぐそこだ。
 朝から降り続いた雨もどうやら小雨になってきたようなので、冬馬は手にした傘をたたんだ。
 店と民家が入り混じって建ち並ぶ道の真ん中で、なにやら人だかりがしているのに気づいた。
 幾重にも重なった人の群れの中央から言い争う声が響く。
 声を荒げて怒鳴り散らす野卑た男の声。それとかすかにだが何とかなだめようとするが語尾がどこか弱々しい声がしていた。
 最初は通り過ぎようとは思ったが、だんだん張り上げる声が大きくなっていくので冬馬は少し気になって足を止めた。
 人の波をかき分けて前に出ると、彼の目の前の地面に初老のやせた男が投げ飛ばされた。投げ飛ばしたのは先ほど大声を張り上げていたと見られる町の無頼者たちだった。
「だからさっさと主人を出せといってんだろうが!」
 擦り切れた着物を着た一人の屈強な男が言った。
 冬馬の目の前に転がっている男は地面に伏したまま、頭を下げつづける。
「ですから先ほどから申し上げているとおり、旦那様は今ここにでてくることはできません。用件は私から伝えておきますのでどうか、どうかここはお引取り願います、お願いでございます」
「てめえんとこの体裁なんぞ、俺たちには関係ねえんだよ。出れねぇのならさっさと主人のとこまで案内しやがれってんだ」
「それだけは勘弁を。館には病人が臥せっておりますゆえ。人の出入りはならぬと……」
 ひたすら平伏する男は身なりからして番頭らしい。冬馬は目の前に建った店の屋号を見た。
(・・・・・・門屋?)
 どこかで聞いた名前だと頭をひねる。そうだ、父親が金を借りていた金貸しの店だ。
 荒くれ者に乱暴にも足で蹴られた番頭の身体を冬馬は受け止めた。
 その番頭は年の割に妙に身体に力がなかった。助けられた礼に軽く会釈された時にちらりと顔を見たが病人かと思うほど青ざめている。
 あまりの様子のおかしさをみてとった冬馬が止める間もなく、番頭はふたたび立ち上がった。
「行かないで下さい!」
 店へと向かった荒くれ者たちの背にすがりつくようにして引きとめる。それを乱暴に払いのけた。
「うるせえってんだよ、だいたいおまえんとこの主人が俺たちにあんな話もちかけて・・・・・・こな・・・・・・ぐふっ!!」
 番頭を突き飛ばした男が突然言葉を詰まらせると、そのまま地面へと崩れ落ちた。
 群集からあがった甲高い叫び声とともに人の波が崩れる。
 荒くれ者はあっという間に事切れていた。仲間の一人が必死で呼びかけるが応えるはずもない。
 その場に立ち尽くしながら冬馬は男の様子をじっと見やる。
 いきなり息を止めて死んだ。そうとしか思えなかった。
 男の両目は白眼を向け、血の気は失せて浅黒かった肌が今では真っ白だった。
 傍らで腰を抜かしている番頭はひどく怯えて動くことも出来ない。何かつぶやいたようだったが、その声は小さくて聞き取れなかった。
 騒ぎを聞きつけて城の侍たちが駆けつけてきた。囲んでいた人並みが遠巻きになる。
 自分のいる必要もないと冬馬もその場を離れようとした。背を向けた一瞬、視界の隅に何かがよぎる。
 振り向いたがそこに何も見あたらなかった。しかし目をこすってもう一度男の死骸を見た。
 するとどうだろう。男の死骸から薄ぼんやりとした淡く白い陽炎が立ち昇ってすうっと宙へ消えた。
 周りの人々の誰もそれを見ていない。
(あれは一体・・・・・・?)
 白い影が消えた場所を見つめながら、冬馬は自分の疑問に答える事はできなかった。
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