巳の刻 笹岡道場にて剣術修業
 神社から数里ほど離れてある城下町。その城下町でも名の知れた笹岡道場へ二日に一度の割合で冬馬は通っている。
 道場の恵子では誰もが仰々しい防具などつけず、互いに体を木刀で打ち合う荒々しいものだった。誰もが打ちこみで身体中に打撲の跡が出来る。
 冬馬は十三のときにこの道場に通い始めてはや四年。まだ目録はもらえていないが、道場生の中でもその実力は若いながらも群を抜く。
「今日は荒れているなあ、何かあったのか」
 気になって速水が聞いてくるほど、今日の冬馬の剣には妙な気迫がこもっていた。打ちこみで流れる汗を吹きながら彼の横に腰を下ろした。
「別に大したことは・・・・・・」
 朝のことを思い出したくないのでやや憮然と答えた。
 そんな冬馬の言葉をどう受け取ったのか、速水は彼の背中を手で何度も激しく叩いた。そのあまりの強さに冬馬の身体は前にのめる。
「ま、若い時の苦労ってもんは大事だ。そのうち何が起きようと達観できるようになるさ。何事も修行だと思えばいい」
 事情など何も知らず気楽に言う速水とは裏腹に、冬馬の心はますます暗くなった。
(俺は何事もなく静かに暮らしたいだけです、義兄上)


午の刻 神社の御奉仕
 塵一つなく見事に輝いた床を千夏はじっと見つめていた。
 神社本殿の掃除で忙しく働く村の氏子。大勢の人数で掃除をしているため、祭殿は見る見る間に綺麗になってゆく。
「ねーえ、弓削のおばば。どうしてみんな神社に掃除をしに来るの?」
 くいくいと袖を引っ張って傍らで柱を磨く老婆に声をかけた。すると笑って返事を返した。
「神様への感謝の心をささげるためですよ。私たちが無事暮らせるのも藤森におわす神様のおかげですからね」
「おばばは見たことあるの、神様?」
「いいえ、目に見えなくてもいつも側にいて私たちのことを見守ってくださるのですよ。それにちゃんとご奉仕すれば願いをかなえてくれるときもあるんですよ」
 千夏も当然そうだろうという目で見ている。でも当の狐娘はそんなことを信じることはない。むしろ疑っている
だが、ここで疑われるわけにはいかない。だから誰からも可愛らしいと誉められる顔でニコニコと笑った。
「そうなんだ、知らなかったぁ」
(みんな《千夏》をごく普通の女の子だと思っているわね。実は人じゃなくて人に化けた狐だ、なんて言ったら、おばばは卒倒しちゃうかしら?)
 そんな気持ちを抱きながらも千夏は蟻のように働く人々の様子を眺め続けた。
「そうそう、千夏お嬢様。今日のお昼はばば自慢の鮎の雑炊を用意いたしましょう。先ほど庄屋殿が鮎を届けてくださいましてね。ここの掃除が終ったらすぐに準備いたしますよ」
 食べ物のことになってとたんに千夏の目が輝き出した。
「ほんとっ!? 千夏、おいしいもの大好きなの。早く掃除終わらして、食べようねっ!」

未の刻 意外とあるようでない神主の仕事
「・・・・・・という段取りで収穫の祭りを進めさせていこうと思います。よろしいでしょうか、神主様?」
「いいのではないかね。みなのいいようによきに計らってくれ」
 神主の了承を取り付けて退出する氏子代表の者と入れ替わりに、一人の男が入ってきた。見たところ身なりのよいものらしいことは知れた。
「そなたは・・・・・・?」
 見覚えのないその者に疑問を示す。入ってきた中年の男はへこへこと腰低くお辞儀をして、あせった様子で用件を述べた。
「先日、門屋の一件を聞きましてぜひとも助けていただきたく、はるばるやってまいりました」
 聞けばこの者、山の向こうにある村の長者らしい。近頃村の墓地で妖怪が暴れまわって村人を襲い始めているという。
 話を聞いて春光はぽんと扇を叩いて言い放った。
「それはお困りでしょう。我が神社より妖怪退治のための術者を送りますゆえ、大船に乗った気持ちで御安心を」
「ま、真ですか! ぜひ今夜にでもすぐにお願いいたしますっ!」
 開いた扇の陰に隠れて春光は一人ほくそ笑んだ。
(まあ、未熟なあやつの修行くらいにはなるだろう)


申の刻 境内にていつもの訪問者
 境内を歩く見慣れた人影を見つけて、千夏は声をかけた。
「兄様はいないよ。今日、道場の稽古の日だから」
「あ、そうですか」
 千夏の言葉にしゅんと美弥はうなだれた。
 その様子を見て不意にいたずら心が沸いた。彼女は無邪気な笑顔で問いかけた。
「もしかして兄様のこと、好き?」
「え・・・・・・、えええっ!」
 思わず袂で顔を隠したが、美弥の顔は耳まで真っ赤になってしまっている。
「違います、私はただ、いらっしゃらないのかと伺ったまでで、そんな・・・・・・」
 思いっきり動揺している。
 必死になって否定するが、顔を見ればわかる。人というもののおかしさに千夏はくすっと笑った。
「千夏と同じだね。千夏も兄様大好きだもん」
 子供の、おもちゃが好きとかといったのと同じことなのだろうと思ったのか、美弥はほっとした表情を見せる。
 一応、千夏はまだこのことに口出しする気はない。無粋、という言葉は知っている。なによりも冬馬のあの鈍さに不安があった。だから手伝っても彼が自分でそれに気づかない限り無駄という気がしたからだ。
 人間の幼い少女のように千夏は甘えた声を出して美弥に抱きついた。
「美弥お姉ちゃんのことも千夏、大好き。お姉ちゃんが持ってきてくれるもの、みんなおいしいし」
「そう? ありがとう、千夏様。今度は舶来のめずらしい飴を持ってきてあげる。とってもあまいお菓子なの、おいしいわよ」
「本当? うれしい!」
 本心から千夏は喜びの声を上げた。どこまでもおいしいものに目がない千夏だった。


酉の刻 夕餉でも相変わらず
「そういうわけだから夕餉をとり終わったらすぐ山の向こうの村へ行ってくれ。妖怪退治の仕事だぞ」
 春光のとぼけた物言いを聞くやいなや、冬馬は乱暴に箸を盆の上に叩きつけた。
「どう言うわけで俺が行かなければならないことになってるんだ。いきなり状況もいきさつも聞かされず、ただ仕事だぞなんて言われて、俺がはいそうですか、なんて言うと思ってるのかっ!」
「もうおまえが行くといってあるぞ。おまえも大人の男児ならばさっぱりばっさりと退治して来い」
「何で全部俺に押し付けるんだ、親父が行けばいいだろ!」
「……それが今日はどうも足が痛くてのぅ」
 いたたた、と急に足を押さえて痛がるふりをする春光。だがそんな嘘は冬馬には通じない。
「仮病を使うな。さっきまでぴんぴんして動き回ってたろ!」
 舌戦を広げる、と言うよりは冬馬が勝手にまくしたてて、のらりくらりと春光がかわしているだけだ。
 二人の言い合いを黙って聞きながら、千夏は居間に行儀よく座って眺めていた。ただ、食べ物を口に運ぶ箸だけは止まることを知らない。
 その間にご飯茶碗一杯分を平らげてしまい、もういい加減聞き飽きた彼女はポツリとつぶやいた。
「兄様、最後には結局行くことになるんでしょ。反抗するだけ時間の無駄だよ、早くごはん食べて支度しなきゃ」
「・・・・・・時間の無駄!?」
 千夏は魚の骨を残してすべて綺麗に食べ終えて、丁寧に手を合わせてお辞儀をした。
 じっと下から彼を見上げた。
「だって冬馬兄様は一度も父上様に言い合いで勝てた試しがないわ。無駄なことをしない方がいいでしょ?」
 もっともな言葉に冬馬は反論することができなかった。


「あれ? 兄様、それ父上様から頂いた刀じゃないでしょ?」
 彼の腰に下げた刀を見て、千夏は疑問を示した。その刀はかつて父から送られたものではなく、前より彼が使用していたものだった。
 それを聞いて冬馬の眉が少しつりあがる。
「あんな危ない代物、使えるか」
「あ、もしかしてあの刀が恐いんじゃない、冬馬?」
「・・・・・・ちっ、ちがう! そんなことはない!」
「ならいいじゃない。持ってったらなにか役に立つかもよ」
 そんなわけあるか、という彼の言葉などまったく聞かない。 千夏は部屋の片隅に置いてあった紫の縮緬袋に入れられた曰くつきの刀を抱えて、冬馬に出発を促した。
「ほら、元気に妖怪退治に行くよー!」
 どうやってもこんな運命から逃げられないと思い知り、冬馬は深くため息をついた。
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